2008/08/19 ぽれーる通信 No.25 バヌアツ クルーズ


お久しぶりですが、オケラネットの皆さん、お元気ですか。
8月19日現在、ぽれーるはニューカレドニアのヌーメアに停泊しています。

バヌアツクルーズの開始

今回は、バヌアツ諸島クルーズについてお話します。
5月26日から6月18日の約3週間滞在したPortVilaを出港し、北部バヌアツの 島々を巡る40日間、総航程約460マイル(850km)のクルーズを行いまし た。

PortVilaを出港した日から天気予報に反して天候が悪化し、南東の強風(約30k t)、波が高く白波の立つ海、スコール、時々太陽と青空が出ますが、概ね小雨模様 で曇りの日が続きました。晴天も一日と続かない中、小刻みに島々を巡りました。そ れでもアンカリング地では一時の安らぎと素晴らしい人達に出会うことができまし た。また、Luganville湾とPort Sandwichを除くアンカリング地では他のヨットを見 ることのなく、ぽれーる一隻のみの錨泊が続きました。

EMAE島でバナナをくれたワバッキー

PortVilaを出港して最初の寄港地のNguna島までは一隻の船も見かけることもなく、また、アンカリング地でも人っ子一人も見かけない寂しい幕開けとなってしまいましい、 この先のクルーズが案じられました。しかし、Emae島ではアンカーを下ろすと同時にかなり離れた海岸からカヌーでぽれーるまで来た若者(ワバッキー)が約5 0本の青いバナナの実が付いた房を持って来てプレゼントしてくれました。

最初、ワバッキーの顔は一見厳つく、バナナの代金を請求されるものと思い断ろうとしましたが、彼の好意によるプレゼントとわかりたいへん感謝しました。 相手の容貌や身なりから変な偏見や先入観を持っていた自分が恥ずかしくなりました。 また、彼を船内に招待するとぽれーるにおいてあるウクレレを見つけるとすぐにそれを弾きながら得意なバヌアツ・ソングまで歌ってくれました。

EPI島果物をプレゼントしてくれたレアタとかわいいピタ

Epi島でもアンカリングをしていると子供(ピタ)を連れた若いお母さん(レアタ)がカヌーで来てたくさんのマンゴ、レモン、皮をむいた椰子の実、 グレープフルーツを「ようこそ、私たちの島に立ち寄ってくれました歓迎します。」と言ってプレゼントしてくれました。

また、ほとんどのアンカリング地では村の子供達が何隻かのカヌーでぽれーるから少し離れた周りに来て最初は興味深げに遠慮がちに見ているだけですが、 私から「ボンジュール!、ハロー!」と挨拶したり、子供達の挨拶に応えてあげるとすぐにぽれーるの近くまで来て、お互いの自己紹介とか私から村や子供 達の学校の様子、子供達からはどこから来たのか、いつまでここにいるつもりかという話をしている内にお互いすぐ仲良くなりました。

EPI島ガキ大将のジェフリーと控えめなウーア AMBRYM島イノス、ボン、サンディー、レンシー
AMBRYM島の海岸で遊ぶ子供達と AMBRYM島夢を語ってくれたサンディー達
AMBRYM島出港の朝行っちゃダメと見送りに来たイノスとボン ランプス村の「子供の日」朝から夕方まで行われた運動会種目は駆け足とサッカーのみ
私がぽれーるに上がってもいいよと言うと子供達は嬉しそうに甲板上をあっちに行ったり、こっちに行ったりし、キャビンでジュースを飲んだりみんなで記念撮影をして過ごし、 次の日にはその話を聞いた新たな子供達もやって来てくれました。そのような子供達とは日本、ヨットの旅、彼等の村の様子、普段の彼等の遊び、学校の様子等について話をしました。
また、私が彼等の将来の夢について尋ねると半分以上の子供はそんなこと考えたこともないという表情と、ただ恥ずかしそうにニコニコ笑っているだけでしたが、 回答してくれた男の子の中で意外に多かったのは「パイロット」、次が「大きな船の船乗り」、「漁師」、「ポートビラのような都会で働くこと」等、女の子では「先生」、「看護 婦」、「お母さん」、「綺麗なお店の店員」等でした。 そういえば、バヌアツでは島と島の交通手段として20人程度が搭乗できるレシプロ双発機が飛んでおり、 また、300トン程度の貨物船が定期的に大きな町と島の村を行き来しています。かなりの島には草地の飛行場があり、日に2,3便は飛行機が飛んでいるようです。 アンカリング地で村の沖合に錨を下ろした時、貨物船から人々が小さなボートを使って乗り降りしていたり荷物が運ばれているのを時々見ました。

こういう環境の中で子供達は飛 行機を見て「パイロット」になりたい、貨物船を見て「船員」になりたいと考えたのでしょうか。 しかし、飛行機の運賃はPortVilaから約270km離れたLuganvilleまでの片道でも15000バツ(17000円)とたいへん高く、旅行者、公務員、 お金に余裕のある人しか利用できないようです。

ところで、バヌアツでは小学校は義務教育ではありません。小学校に通うには地方の島でも年間で最低1500バツ(1700円)程度の授業料が必要で、 PortVila等の都会ではもっと多くのお金が授業料として必要だそうです。町や村ではこの授業料が払えなくて学校へ通っていない子供が新聞を売り歩いたり、 親の手伝いをしていたり、朝から魚釣りや遊んだりしています。

MALAKULA島PortSandwichでアンカリング MALO島アブナタリ村沖でアンカリング

PortVila、Luganville、Norsupのような大きな町を除くほとんどのアンカリング地でぽれーるは、村の人々から温かい歓迎を受けました。 わざわざカヌーでぽれーるまで来て村に来るように招待してくれたり、ディンギー等で海岸に上陸すると決まって誰かが村や周辺の案内役をかってくれました。

MALAKULA島PortSandwichの砂浜で MALAKULA島アンドレーの家族に夕食をご馳走に
MALO島マレヒ家族と昼食 'MALAKULA島ランプス村でお世話になったノエル家族とフランスから来ていたジェラルドとシーナ
そして、村の夕食等に招待され、灯油ランプの薄暗い村の中で夜遅くまで村の人達と語らいました。 Malakula島の最北端のLesarmalras村ではアンドレの家、Malo島Avunatari村ではマレヒの家に宿泊までさせてもらい、ガラスのないカーテンのみの開けっ放しの窓から心地よい風を受け、 土間のひんやりとした上に敷かれたゴザの上の寝心地はいい思い出になりました。
バヌアツに来るまでは蚊が媒介するマラリアが心配で予防薬の入手とか夜は長袖、長ズボンをと考えていましたが、その頃はすっかりそんなマラリア対策のことも忘れて蚊にさされて いましたが気にならなくなっていました。今のところ、私は病気にもかからず元気にクルーズを続けています。 ランプス村の「子供の日」昼食をご馳走になった家族と

PortVilaやLuganville等の大きな町では人々の食事は日本人と同じようにご飯やパンが主食となっていようです。 地方の島ではヤムイモ、タロイモ、料理用バナナ等にココナッツミルクをあえたものが中心でその中に近くで取れた魚の切り身などが入っていることがあります。 また、村のお祭りや村に来た人を歓迎するときなどは、子豚の丸焼きや、鶏肉の焼き物が出されます。

首都PortVilaのあるEfate島とLuganvilleの所在するEspiritu Santo島を除けくバヌアツの他の島は電気は通じていません。 ちょっとした町ではディーゼル発電機を備えているところもあります。他の島や村では夜になるとほとんど真っ暗になります。 その分、夜空に輝く南十字星やシリウス、カノープス等の星がほんとうに美しく見えます。たまに家の灯油ランプ、夜間漁や夜間移動のための懐中電灯の光、 たき火の明かりが見えることもあります。

ランプス村でKAVAナイト KAVAナイトで夜半酩酊状態で記念写真

例外的に村の男達の社交と歓談の場所となっている「KAVAバー(南国の村の一杯飲み屋)」としての集会小屋ではかなり夜遅く まで灯油ランプの薄暗い明かりが点いています。そのまわりにはKAVAで酩酊したお父さんや若者(村の女性は掟で加わることができません。)がひそひそ話をしていたり、 静かに座り込んでいました。私もその輪に入ってKAVAを飲み、酔いでかなりふらふらしながら懐中電灯を頼りにぽれーるまで帰ることになったことが数回ありました。

AMBRYM島クレイグ・コーブでアンカリング ぽれーる搭載のカヌーのウイルで上陸

アンカリング灯を付け忘れた時など真っ暗闇の湾に停泊しているぽれーるをカヌーやディンギーで捜し回るのはたいへん緊張し冷や汗ものでした。 何せバヌアツの湾内には場所によっては鮫が多くいます。Port Sandwichにアンカリングした時、そこの湾では過去に何人かの人が鮫に襲われており、 ちょうど私が到着した3日前に地元の人が砂浜近くの海岸で飼い犬を泳がせていた時、その犬が大きな鮫に食べられてしまったそうです。まったく映画「ジョーズ」の世界です。

AMBRYM島Fanla Art Festivalで一緒に輪になってダンス AMBRYM島Fanla村の長老達
AMBRYM島Fanla村の案内役のジョンと休憩中 AMBRYM島Fanla村の大酋長と

マルケサスからフィジーに至る他の南太平洋の島々に比較してバヌアツでは物乞いをする人は少ないように思います。もちろん、物々交換でロープ、乾電池等を欲しがる 人もいましたが、他の国のようにしつこく付きまとわれたり何回も言われることはありませんでした。 ただ、Pentcost島のHomo湾では村の酋長がカヌーで来て、ヨットのアンカリング料一晩500バツ(約600円)を請求されました。 それも、同じ村にもかかわらず時間をおいて三人の酋長(ナンバーワン、ナンバーツー、ナンバースリーの酋長)がぽれーるまで来てアンカリング料を請求したので 結局1500バツの出費になりました。

Pentcost島はバンジージャンプ(地元ではランド・ダイブ)、Tanna島は火山等の見物ということで多くの観光客が飛行機や観光船等で訪れ、現地の村ではお土産物とか見物料として 現金収入があるため、島の人達のお金に対する関心が強くなっていると言われています。しかし、これは文明人と称する人達が持ち込んでしまった価値観であり決して地元の人達の責任 ではないように思います。ヨットで訪れた私もある意味で彼等を惑わす文明人の一人だったかも知れません。

SANTO島ルーガビル湾でアンカリング

Luganville湾にアンカリングしていた時に、ちょうど日本のヨット「平和」が湾内に入って来て、直ぐ近くに停泊し、その時、湾内で停泊しているのヨット6隻の内、 2隻が日の丸を掲げているという日本人として誇らしい気持ちになりました。艇長のヒラタさんは私と同じシングルハンドですが69才にもかかかわらず元気一杯のスポーツマンで 心意気は青年そのものという方でした。ヒラタさんとは何度か一緒に上陸したり街でコーヒー等を飲みましたが、経験豊かなお話とそのはつらつとした行動力には頭が下がりました。 バヌアツに来て既に志摩マリーナから来ていた「波羅蜜多(ハラミタ)」と今回の「平和」という日本のヨット2隻に出会うことができ、今後も更に日本のヨットに出会うことが できるような予感がしています。

PENTECOST島4カ国語を話すトォー、ケンシー、ハリー

バヌアツではかなり年配の人等を除けば「ビスラマ語」、「英語」、「フランス 語」、「地方語」等の四カ国語以上を自由に喋り、読み書きもできる人が多いようで す。ぽれーるがアンカリング地に到着した時、子供達がカヌーでやって来て、私に対し「おじさんは何語を話すの?」とフランス語(多分)でよく聞かれました。私がた どたどしい英語で返答するとそれまでフランス語を喋っていた子供達は一斉に英語に切り替えて話しかけてくれました。また、村の人と日本の話をしているとよく「日本 では何カ国語が話されているのか?」と聞かれ、「日本では日本語一つで、地方に よって少し方言がある。」と答えると「日本は一つの言語でみんなが話せるなんて、 なんと幸せな国なんだろう。」と感心する人に多く会いました。

MALAKULA島アニタと赤ん坊 MALAKULA島カヌーでデート中のアンドレーとアニタ夫婦

また、バヌアツは総 人口約20万人ですが、日本の東京には約1200万人、日本全体では約1億2700万人が暮らしていると説明すると信じられないというような 顔と数の大きさの概念 が100万も超すとピントこないというように言われました。 今、バヌアツは携帯電話ブームです。もともとこちらではテレコム系が電話事業を独 占していて携帯電話などは高級品でしたが、最近、新たに「DIGCEL社」が参入し、かなり手頃な価格(でも2000バツ)で携帯電話が手に入るようになったため と、新たに地方の島の山の頂に通信アンテナ塔が設置され通話エリアが広がったこともあります。

SANTO島WWU米軍コルセアのエンジンと

島の山道を歩いていると突然林の向こうから携帯電話の着信音が聞こえてくることがあります。村では首からストラップで携帯電話を下げていることがお洒 落である 意味のステータスでもあります。でも電気も通じていないところでどうやって携帯電話の充電をしているのでしょうか。しかし、心配はいりません。ちゃんと携 帯電話を 購入すると小型のソーラー発電器(携帯電話と同じぐらいの大きさ)がおまけで付いてきます。バヌアツの人は、日本の若者と同じように携帯電話で話すること がたいへん 好きなようです。PortVila市内では歩きながら電話をしている人を多く見かけます。お互いの声が届きそうな距離にある人同士でも結構電話で話をし ています。 DIGCEL社のもくろみはすっかり的中しているようです。バヌアツの人は、これから携帯電話で話をするために、しっかりと働いてお金を稼がなければな らない生活に向かうようです。残念ながら日本の携帯電話はバヌアツでは通じませ ん。

バヌアツJICAオフィス JICAバヌアツ・オフィスの中村所長(左)、大町さん

バヌアツに最初に入国した時、PortVilaにあるJICAバヌアツ事務所を訪れ中村所長をはじめ援助コーディネータの大町さんに挨拶し、活動状況のお話を伺う とともに無理を言って隊員の方が実施している現場を見せていただくことになりまし た。

阿部先生とリセ高校の生徒達 SANTO島サラカト小学校で
SANTO島青年海外協力隊で頑張っているユーコとヒロコ PortVila ぽれーる夜の部(JICA,、USピースコープ)

PortVilaでは郊外のラセ高校で実施されたアベ先生の日本語教室に、 Espiritu Santo島Luganvilleではやはり同じJICAの土木関係担当のササキさんに 街の中を案内してもらったり、日本の援助で進めている水力発電所の建設状況の話を 伺い、また、同じLuganvilleのサラカタ小学校に音楽教務担当として勤められている コグマ先生に授業風景を見せてもらうことができました。皆さん献身的に苦労されな がらバヌアツの人のために頑張っている日本の若い女性でその姿にはたいへん感銘を 受けました。

Luganvilleではササキさんやコグマさん、それから地元で旅行・不動産 業を営んでいるマユミさんに誘われて市内にあるKAVAバーへ何回か出かけKAV Aの酔いと会話を楽しみました。また、運良く開催されたEspiritu Santo島の日本人 会のすき焼きパーティーにも招待していただき、おいしい肉をお腹一杯いただくこと ができました。今回のクルーズでは天候と時間的な制約でバヌアツの他の島で活躍さ れているJICAの隊員の方々のすべてにお会いすることはできませんでしたが、 きっと現地の人達にとけ込んで頑張っておられるものと思います。

PortVila ぽれーるを訪れたJICAの皆さんと

再びPortVilaに戻った時にも、中村所長をはじめ多くの方がぽれーるを訪れていただき、中村 所長のお宅でご馳走になったり、シニアボランティアとして活躍されている年齢的に も私よりも10歳ぐらい上のカワグチさんやイケダさんからボランティアにかける情 熱やこれまでの貴重な体験のお話、人生の先輩としてのアドバイスを伺うことができ ました。また、JICAの草の根支援活動プロジェクトに関連して大学の研究の一環 としてバヌアツのFutuna島(PortVilaから南東に約280km離れた 大海の孤島)で一年間島の人達と生活を共にし、そこに住む人々の生活基盤の確立の ために頑張って来られ帰国直前のうら若い女性キノシタさんにPortVilaでお 会いしお話をお聞きすることができました。

PortVila近所の各国のヨットのかわいい孫娘に囲まれて PortVila港の夜 バヌアツを出港、ニューカレドニアへ

バヌアツでのクルージングを通じていろんな人と出会い、また、そこで過ごして経験 したことは、私にとって更に次のクルージングへの心の支えと糧にになってくれるも のと思います。 とりとめもない文面になってしまい、また、文書力の不足からうまく言えなかったこ と、私の間違った認識から適切でないことがあるかも知れませんが、何と度ご容赦下 さい。

2008年8月19日 ヌーメア・ニューカレドニアにて ぽれーる 関 


バヌアツ・クルーズで立ち寄ったアンカリング地

6月18日 Nguna島NaworaMatua湾(南緯17度26分、東経168度20分)
  19日 Emae島Sulua湾(南緯17度03分、東経168度22分)
  20日 Epi島Lamen湾(南緯16度37分、東経168度09分)
  21日 Ambrym島Craia Cove(南緯16度16分、東経167度55分)
  22日 Pentcost島Homo湾(南緯15度58分、東経168度11分)
  23日 Malakula島Norsup湾(南緯16度04分、東経167度23分)
  24日 Malakula島Aop湾(南緯16度05分、東経167度24分)
  26日 Malakula島Lesarmalras村沖(南緯15度53分、東経167度12分)
  28日 Malo島Avunatari村沖(南緯15度39分、東経167度05分)
  30日 Espiritu Santo島Luganville湾(南緯15度32分、東経167度10分)
7月15日 Ambae島Vanihe湾(南緯15度17分、東経167度58分)
  16日 Ambrym島Ranon沖(南緯16度09分、東経168度07分)
  19日 Malakula島Port Sandwich(南緯16度27分、東経167度47分)
  25日 Epi島Revolien湾(南緯16度44分、東経168度08分)
  26日 Moso島北東(南緯17度30分、東経168度18分)
  27日 Efate島(南緯17度36分、東経168度15分)  
  28日 PortVila帰着