5 ダーウィンの思い出

 夏のダーウィンは本当に暑いところです。日中の日差しが強く夜になっても湿度が高く気温は30℃を下回ることがありません。日中の街を歩く時はひさしのある帽子とペットボトルの水は必需品です。

 ぽれーるは10月30日の正午にダーウィン港の沖合のフランシス湾にアンカーを下ろしました。今年の7月には日本のヨットのリバティーがダーウィンの街の西にある綺麗なファニー湾に停泊し、かなり沖合のアンカリング地のためディンギーでの上陸に時間を要したことがホームページに書かれていました。ぽれーるはダーウィンの奥にある海はあまり綺麗ではありませんが上陸が容易で船の修理とダウンタウンに近く買物に便利な東側のフランシス湾を選びました。

 ダーウィンの海は干満差が7mを越えており、ぽれーるがダーウィンに到着した時が最干潮で干上がった泥の上にモノハル・ヨットが横たわり、何隻ものカタマラン・ヨットが泥の上に鎮座していました。また、500トンクラスの貨物船も完全に泥の上でした。マリーナはヨットのマスト・トップが土手の向う側に見えるのみで、マリーナの水門はしっかり閉じられており、マリーナ内の海水が流れ出てしまわないようになっていました。また、近くの漁港もマリーナと同じように水門が閉じられており、ダーウィンではヨットや漁船の港への出入りには潮の干満に伴う時間制限があるようです。

 潮の干満に関係なく常時使えるダーウィン港の桟橋と港内にはかなり大きな船とコーストガード、タグボート、観光船、観光ヨットのみが係留されていました。ぽれーるがフランシス湾に着いた時、ダーウィン港には高さ150mを越える塔がそびえる海上オイルタワーが修理のため桟橋に係留されていました。

 早速、ディンギーでダーウィン港内の浮桟橋に上陸し、ケアンズからの航海中に壊れたブームバング・ピストンからの油漏れ修理のためハイドロリック・ショップを捜しに行きました。途中、港内で電気関係の修理をしていた人にハイドロリック・ショップの場所を尋ねたところ、親切にも彼の知っている郊外のショップまで車で乗せていってくれました。郊外のハイドロリック・ショップでピストンの修理を依頼し帰りは高速道路の脇を5kmほど歩いて港に戻りましたが、日差しが強く、暑さのため頭がクラクラし倒れそうになりました。

 ダーウィン港は第二次世界大戦の時、日本の艦載機による空襲を何度か受けており、約300人近い人が空襲の犠牲になったそうです。港の中にもその追悼記念碑があり、破壊された桟橋や建物の写真が飾ってありました。また、港から少し歩いたところの丘の麓には日本軍からの空襲を避けるための防空壕がいくつか残っており、中の一つは戦争記念館となっていました。

 2日目もやはり壊れたままになっているウィンドベーンを改修(ダラー方式からステアリング駆動方式へ)して何とかオートパイロットとして使えるようにするため近くのマリーナへ部品入手等の情報収集に出かけました。たまたま、ダナビーチマリーナの掲示板の前にいた人にマリン部品や燃料補給等について尋ねているうちに彼が私を自分の車で連れて行ってくれることになりました。彼の名前はジュリアス、高校の数学の先生で家族はケアンズの南約100マイルにあるタウンビルにいるそうです。今はダーウィンに単身赴任し市内の自宅とセカンドハウスにしているマリーナに係留中のモータークルーザで暮しているそうです。

 結局、ジュリアスは私がダーウィンに滞在している間、修理ショップ、マリン部品ショップ、食糧品等の買出しに彼の車を使って支援してくれました。また、彼はダーウィンを中心にインドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシアに自分のモータークルーザで航海しており、いろいろ近辺のクルーズ情報を教えてくれました。私がダーウィンの後、インドネシアのジャワかジャカルタにクルーズするつもりでいることを話すとインドネシアはやめた方がいいと言われました。

 それは、2007年からインドネシアのレギュレーションが変ってインドネシアを訪れるヨット等はボンドBond(入国時に保証金として預け出国時に返却)としてそのヨット等の評価額の20−50%の金額を入国時に支払わなければならないということでした。また、出国時のボンドの返却については明確になっておらず、返却されたお金がインドネシアのルピアではマネーチェンジで大きな損失が生じるおそれがあります。

 このボンドを免除してもらうにはやはりかなりの賄賂をインドネシアの役人へ渡す必要があるそうです。なお、ヨットレースやオーシャンラリー参加艇についてはこのボンドは免除されるとのことでした。また、インドネシアやフィリピン海域にはパイレーツの問題もあり、シングルハンドによるクルーズは勧められないということでした。

 フランシス湾には地元のヨット等以外には、ブリスベンから来たビル、サリー夫妻にその息子のジャックを乗せたオーストラリアのヨットが1隻、ぽれーるの2日後に到着したサンデイゴがホームポートのジェフのヨットの3隻のみでした。この時期、ダーウィンの上空は毎晩のようにサンダーストームが通り過ぎていきます。

 11月4日の夜も夜半過ぎかなり風速が上がり、突然、ジェフからヨットに繋いでいたロープが切れてFRP製のディンギーが流されてしまったので捜すのを手伝って欲しいとの無線連絡が入りました。約20ktの風が吹き激しい雨と波立つ湾内をぽれーるのディンギーでジェフのヨットに行き彼を乗せて流されてしまったディンギーを捜し真っ暗な海上を走り回りました。

 約30分後に彼のディンギーが風下の岩場に漂着しているのを発見し、ディンギーを桟橋に着け陸側から二人でロープを使って岸に引上げました。その時にはディンギーに付けていた船外機は外れて無くなっていました。彼のディンギーは所々FRPが壊れて孔が開いていましたが、翌日には自分で修理し、船外機も付近の海底から引上げ整備して使えるようになっていました。11月8日にはぽれーるを除く2隻のヨットはシンガポールに向け出港して行きました。

 ジュリアスは仕事の合間に私を近隣の自然公園やワニ園へ連れて行ってくれ、滝壺で泳いだり餌に釣られてジャンプするワニを見せてくれました。夜には日本でいう居酒屋(オーストラリアでは「クラブ」と言います。)へも一緒に行きました。

 ダーウィン地区は既にサイクロンの危険期間に入っていて、フランシス湾でのアンカリングは危険なため、ジュリアスは万一のためマリーナ係留(50ftクラスのヨットで月額約5万円)やマングローブの退避場所を紹介してくれました。また、彼のマリーナのヨットクラブのパティーや食事に招待してくれ、多くの彼の仲間を紹介してくれました。

 私は9月3日にオーストラリアへ入国し、3ヶ月間の滞在ビザは12月2日で切れるため、そのビザの延長について市内のイミグレーションオフィスへ何回か足を運びました。ただ、行く度にイミグレーション担当官が変り、それぞれの言うことが違っていました。結局、日本人のオーストラリアのビザ延長は240ドル払い、ある程度の所持金の証明(インターネットで入手した日本の銀行の日本語の残額証明でも可能でした。)があれば5分もかからずに簡単にできることがダーウィン出港の直前に分りました。しかし、その時には既にカスタムへクリスマス島への出港手続を終え、また、出港を前提とした無税燃料の給油も終っていました。

 11月12日、約2週間滞在したダーウィンを出て、先はクリスマス島へ向うことにしました。ジュリアスをはじめ地元のヨッティーからはこの時期の南インド洋へのクルーズは50%の確率でサイクロン等に遭遇する可能性があり幾度も私を引留めようとしました。私の出港への決意が変らないと分って、ジュリアスは最後にダーウィン空港気象センターへ連れて行きサイクロン担当官の話を聞かせてくれました。最近のサイクロンの発生区域、発生後の針路、発生直前の兆候等、また、ぽれーるのコース上にサイクロンの発生のおそれがある時は、直接、サイクロン担当官からメールで知らせてくれることにもなりました。 ダーウィンはたいへん暑かったけれど、それにも増して人の温かい善意にふれることができました。