こんにちは、ぽれーるは4月10日現在、ナイスナー(Knysna 南緯34度03分、東経23度02分)のナイスナーヨットクラブでお世話になっています。
今回はレユニオン編とマダガスカル(その1)を送ります。
モーリシャス・ポートルイスを「ヤイマ」と共に8月17日14時に出港して150マイル南西に離れたレユニオンReunionのル・ポートの東港ポートクエスト(南緯20度59分、東経55度17分)を目指しました。一般にフランス領(タヒチ、ニューカレドニア等)は物価の高いことで知られています。レユニオンはやはりフランス領ということで立ち寄らないヨッティーも結構いました。
また、欧米人や日本人には事前のビザ取得の必要はありませんが、東南アジアや中東等の人には事前ビザ取得が要求されています。ヨット仲間の中にはフランス国籍のご主人と結婚していても国籍がタイのままの奥さんは事前ビザ取得を要求されたそうです。 また、ヨット「マリ・アン」のビビアンもマレーシア国籍のため何回かポートルイスのフランス領事館へ足をはこんでいました。 まして、「ヤイマ」のリンちゃんは台湾国籍で、中国との関係で台湾を認めていない国もあり、日本国籍のヨットに搭乗しているもののフランス領事館から特別な上申書の提出を求められたようでした。結果的にはリンちゃんもレユニオン入国のビザが下り、彼女にとっては「ヤイマ」にモルディブから搭乗して今回のクルーズが最後でレユニオンからは飛行機で台湾へ帰ることになっていました。
モーリシャスを「ヤイマ」とぽれーるは同時に出港したにもかかわらず、船足の速い「ヤイマ」はどんどん先に進み、その日の明るいうちにぽれーるから「ヤイマ」の船影を確認することができなくなりました。結局、「ヤイマ」は18日の夕刻にポートクエストに到着したそうです。ぽれーるは18日の夜半過ぎにレユニオンの街の明りが見えるポートクエストまで15マイル地点に達し、いつものように速度を落とし、19日の朝方の入港に合わせることになりました。 港から2マイルになってレユニオンのカスタム、ポートコントロールを無線で呼びましたがまったく応答がありませんでした。その内に先着している「ヤイマ」から入港時の狭い水路の曲がり方等について無線で応答が返ってきました。マリーナのバースには空きが無いようで水路の岸壁に舫いでいるヤイマの舷側に横付けさせてもらいました。その時、私はこれでマリーナ停泊料を払わなくても済むかも知れないと思いましたがレユニオンを出港する時に思い知らされたのはマリーナ内と同じ停泊料でした。
ポートクエストのマリーナは到着から一週間は無料で止めることができますがそれ以降は非常に高い(ぽれーる52フィートのヨット約300ユーロ/一週間)のでレユニオンに先に到着している他の仲間のヨットはほとんどマリーナを出て南の無料のアンカリング地へ移動していたようでした。(後で、南アフリカのリチャードベイで会ったオーストラリアのヨット「タントラム」のブルースは「俺は、お前と同じようにレユニオンではマリーナの外の岸壁に舫いで3週間滞在したが出港する時にも一銭もハーバーマスターには支払わなかった。俺がお前と一緒にいたらお前にも一銭も払わせなかったがな・・・。」と言われてしまいました。 ブルースは私と違って大柄で身長が190cm近くあり、フランス語でも対等にハーバーマスターと渡り合えたようでした。しかも彼はヨット仲間内では「ジョンウェイン」と呼ばれているように、決して自分が納得しない限り相手の言い分を聞かないタイプのヨッティーでした。
それに比べ私は典型的な日本人でフランス語はおろか英語も覚束ないため、相手が少しでも強気に出るとすごすごとそれに従っていました。)(もし、このぽれーる通信を読んでいる方で私と同じような状況になって、しかも外国語にも自信が無い方でも決して結論を急がず、その場は「NO!」と大きな声と不服の態度でとり、何日かの合間をとって何回かその相手と交渉することをお勧めします。きっと、いい結果(無駄なお金の支払いをしないで済む結果がもたらされるように思います。)が出ると思います。分かったような言い方をしていますが、現実には未だに、気の弱い私にはそうできる自身はまったくありません。)
ヨット「ノウチカAnouchka」のウィリアムはレユニオンが母国です。ウィリアムと私はロドリゲスから、マエダさんはモーリシャスから知り合いになっていました。私が知っているウィリアムは人当たりがよく、毎日違った若い女性を連れ歩いていた少しプレーボーイ系のヨッティーでした。何回かぽれーるにも遊びに来ていた彼は35歳のフランス人で自分ではジャズトランペット奏者としてお金を稼いでいると言っていました。ウィリアムは「ヤイマ」とぽれーるがポートクエストに着いた時点にはモーリシャスのグラン・ベイに愛艇をアンカリングしたまま英国のアンソニーのヨットに搭乗して帰国していました。
「ヤイマ」とぽれーるがレユニオン滞在中、ウィリアムは自分の友人に私たちを紹介してくれたり、トレッキングの道の案内役をしてくれたりしました。また、「ヤイマ」とぽれーるがマダガスカルへ出港する前に、マダガスカルで活動しているレユニオンの慈善団体を紹介してくれ、寄付で集めたTシャツ等の衣類15kg分のダンボール箱を「ヤイマ」とぽれーるに一箱ずつマダガスカル・セントマリエの牧師さんに届ける斡旋までしてくれました。最初、私はこの慈善のダンボール箱のマダガスカルへの運搬には気が進みませんでした。
それは、南太平洋をクルーズしていた時に聞いた話で、東南アジアをクルーズしていた米国のヨットがインドネシアでたいへん親切を装ったオーストラリア系の人物から歓待され、楽しく過ごしたそうでした。そして、そのヨットがインドネシアを出港してオーストラリアに向かう前日、お土産とともにその親切を装った人物のオーストラリアに住むお母さんへの誕生日プレゼントとして綺麗に包装された箱を預かったそうです。そして、そのヨットがダーウィンについた時、入国管理官によってその誕生日プレゼントの箱の中から麻薬のヘロインを見つけられたそうでした。 ヨットの乗員は預かり品で中身が麻薬とは知らなかったと主張しましたが認められず、12年の刑の宣告を受け未だに収監されたままだそうです。
これに似たことで私がまだ日本にいた時テレビで観た話で、日本人の旅行者がシンガポールでちょっとした隙に旅行カバンを盗まれてしまい警察にも届け出ましたがそのカバンはなかなか出てきませんでした。数日途方にくれていたところ、親切な人物が現れて何とかしてあなたのカバンを取り返して上げましょうと申し出てくれました。そして、その二日後、盗まれたカバンが戻ってきました。そのカバンの外見はかなり傷ついていましたが中に入れてあったパスポートや現金、キャッシュカード等の貴重品はすべてその中に残っていました。その親切な人物は「楽しい旅行でシンガポールを訪れた日本の方にたいへんご迷惑をかけ申し訳なかった。私は少し裏の社会に顔が効くので交渉しカバンを取り戻すことができた。」ということでした。
更にその親切な人物は傷ついてしまったそのカバンの代わりに新しい旅行カバンを用意してくれました。そして、その盗難騒ぎでできなかった市内観光にもその親切な人物の子供や奥さんを含め連れて行ってくれたそうです。そして、その日本人が次の旅行先であったオーストラリアのシドニー空港に着いたところでその旅行カバンの隠し部分から麻薬が見つけられ逮捕されました。その日本人は麻薬密輸団の一味として20年の刑を受け今もオーストラリアの刑務所に収監されたままだそうです。これらの話は私の記憶のあいまいなことと、少し大げさなテレビ報道になっていたところもあるかも知れませんが、国から国へと移動するクルージング・ヨットはこのような不正品の運び屋に利用されるケースもあるそうです。
レユニオンで預かった慈善の衣類やダンボールを細かくチェックしましたが問題はまったくなくその依頼を引き受けました。そして、最初にその慈善のダンボールを疑った自分を少し恥じましたが、これで次の行き先のマダガスカル・セントマリエが天候や風向の如何を問わずかなり拘束された目的地となったことも事実でした。
レユニオンはアフリカ系、アジア系、フランス系の人々80万が暮らすフランスの海外県です。県都は北部海岸のサン・ドニで経済はサトウキビと観光で支えられています。島は卵を逆立ちさせ左に45度傾けた形をした面積2500km2の火山島です。島のほぼ中央を北東から南西に伸びる谷により北西側と南東側に二分され、北西側は海岸から緩やかなスロープで約2000mの外輪山につながっています。その内側は南北20km、東西15kmで三つ葉のように3つの谷に分かれており、中央に阿蘇山の中岳に相当するピント・デ・ネージュ3030mとレ・グロス・モム2997mの山がそびえ谷には川が流れて渓谷を作っています。また、島の南東部には活火山のピント・ド・ラ・フルネージュ2631mが赤茶けた地肌を現しており他のインド洋の島々とは少し趣が異なった風景が展開しています。
今回は、地元の人の勧め、レユニオンを最後に台湾へ飛行機で帰国するリンちゃんのお別れも兼ね、「ヤイマ」のマエダさん、ユウキくん、リンちゃん、私と案内役のウィリアムを含めた5人で北西部のマファット谷の15kmを一泊二日でトレッキングすることになりました。22日、外輪山ピント・マイド2190mの頂の近くの駐車場までマエダさんの借りたレンタカーで行き、そこからマファット谷へ一気に降りていく初心者コースのトレッキングを12時から開始しました。その日はこの外輪山の頂付は雲で覆われ肌寒く、その頂から雲が滝のように内側に向かって落ちて外輪山の内側の風景は何も見えない真っ白な世界でした。
外輪山の頂から内側への急勾配のトレッキングコースを約200m降りたところで視界が開け、素晴らしい風景が目の前に広がりました。毎日、海原に明け暮れたこれまでのクルージングとは違った、また、新しい世界がそこにはありました。私はキャラバンシューズに登山用のリックを背負いそれなりの登山者のカッコを装っていましたが約4年間のヨットの中の生活は陸上歩行力を確実に低下させていました。500mぐらい下ったところで左の膝を痛め、我慢して歩いていた時、あろうことかキャラバンシューズの底ゴムが左右ともはがれてしまうというアクシデントに見舞われてしまいました。(私の履いていたキャラバンシューズは決して安物ではなく神田の登山専門店で買った一流メーカの約3万円もした靴でしたが、ヨットの中の保管環境がよくなかったのかな・・・。)
左膝を曲げると激痛が走り、底ゴムのトレッドを失って滑りやすくなったキャラバンシューズを庇いながら歩く姿は同行の皆から同情よりも笑いを誘ったようでした。それからは折角の美しい周りの風景も目に止まらず、ひたすらその日の宿泊先の民宿へたどり着くことだけが唯一の願いでした。見かねたリンちゃんが途中の道で確保した杖を貸してくれたことが何よりの救いでした。その日はなんとか痛みの中でも午後の5時過ぎに民宿に着くことができました。その民宿には暫くしてウィリアムの友人で、ピエールとマリーが我々とは逆コースで着き、その夜は彼らや他のハイカーも含め賑やかな夕食となりました。
翌日は9時に民宿を出発し、眼下約500m下の谷を流れギャレッツ川に沿った中腹の平坦なコース9kmを辿りました。途中、私の膝を気遣ってくれて何回も休憩をとりゆっくりと歩くことができました。そして、最終地点のサンス村には15時頃到着し、ピエールとマリーが乗ってきて駐車場に止めていた車でマリーナに帰りつくことができました。その後、車の交換とシャワーを借りるため10km南のセイントポール街の海岸沿にあるピエールの家に向かいました。途中、時間調整のため海岸に立ち寄り砂浜でゆっくりと休憩することができました。砂浜に寝そべって海風にあたっているとすっかり膝の痛みも感じなくなり、あらためて自分が海向きの人間であることを確認しました。
レユニオンでは台湾へ飛行機で帰るリンちゃんをサン・ドニの空港まで送り数日はゆったりとした時間を過ごしました。 マダガスカルへ出港する二日前にオリビエとビビアンのヨット「マリ・アン」がポートクエストに到着し再会を祝して「マリ・アン」で乾杯しました。
9月2日、2週間滞在したレユニオンを後に、マダガスカルへ再び「ヤイマ」と共に向かうことになりました。 2日の午前中、マリーナへの一週間分の停泊料の支払いと出国手続きを行いました。冒頭で述べたように何とか停泊料をディスカウントさせようとしましたが、最初の一週間分が無料で既にディスカウントしているというハーバーマスター側の言い分に押し切られてしまいました。また、無税ディーゼル燃料の給油についても尋ねましたが、コマーシャルの5000リットル以上の給油でないとダメということで0.9ユーロ/リットルのディーゼル燃料286リットルを給油しました。 ちなみに、ぽれーるは2006年7月の東京出港から3年2ヶ月間のエンジン使用時間の合計は945時間(約0.8時間/日)、ジェネレータ・エンジンの使用時間の合計は1110時間(約1時間/日)、また、この間のディーゼル燃料使用量は4060リットル(約3.5リットル/日)でした。
World Cruising Yacht "Polaire"
ぽれーる 関