2009年11月20日午後、マガルク島のリーフからやっとの思いで脱出して南アフリカへ向うことになったぽれーるですが、リチャードベイ(南緯28度48分、東経32度05分)に到着するまでの5日間、モザンビーク海峡でのノックダウンでガチャガチャになった船内の片付け、GPS、無線機、インマルサット等の電子機器、電気配線の点検チェック、海水に浸かったパソコンの分解水洗い、本、内装品等の日干しと忙しい日々を送ることになりました。 幸いにも途中で遭遇した低気圧も1日のみで過ぎ4日間は天候もよく風も東風でジブセールのみ(ノックダウン時にメインセール破損)のぽれーるもほぼ5ktで進むことができました。
11月25日早朝、南アフリカのリチャードベイ沖5マイルに到着し、ハンディーVHF無線機でポートコントロールに連絡して入港と入国のための事前調整を行いました。貨物船等が出入りしている大きな港では船舶の航行の安全を守るため入港出港の管制をポートコントロールが行っています。小さなヨット等の場合は大型船の出入港の合間を考慮して順番が指定されます。また、入国のための事前調整もポートコントロールと打合わせることができます。ヨットの国籍、乗員数とその国籍、どこの港から来たか、ペット等の動物が船内にいるか、銃器等を所有しているか、ヨットの長さ、艇幅等の質問に答えるとアンカーポイントかバースが指定されます。ポートコントロールから税関や入国管理局に連絡が入るためヨットが指定された場所に到着するとほとんどの場合、直ぐにカスタムスやイミグレーションの係官がヨットまで来てくれます。
ぽれーるはズルランド・ヨットクラブのビジターズ・バースへの係留を希望しポートコントロールに了解されました。リチャードベイはレユニオンのポートクエスト以来の大きな港で大型貨物船が出入りしていました。また、港内には水路帯を示す浮標識もしっかり設置されており、ぽれーるは機走で港内にあるズルランド・ヨットクラブを目指しました。ところが、ぽれーるが標識に従い水路の真ん中を航行していたにもかかわらずヨットクラブの約200m手前で浅瀬に乗上げてしまいました。さいわい海底は泥であったため何とかエンジンの後進パワーで浅瀬から脱出することができました。 リチャードベイ到着が潮位の最下時刻でヨットクラブの入口水路の水深が1.5mになっていたのと私がまさか港内の水路で座礁するとは考えていなかったので水深計を見ていなかったことが原因でした。ポートコントロールから港内の水深についてのアドバイスがなかったのが残念でした。結局、ヨットクラブのバースへ行くのは諦め、ポートコントロールと調整して港内の北奥にあるツジガジ・ウォーターフォロントのインターナショナル岸壁に向いました。
インターナショナル岸壁はかなり港の奥まったところにあり少し迷いましたが、ぽれーるのイエローフラッグ(左舷マスト・スプレッダーに掲げた入国旗)を見た地元のセーラーが親切に場所を指し示してくれました。インターナショナル岸壁に近づくと既に顔なじみのヨットが6隻停泊しており、直ぐにヨット仲間が舫取りを手伝ってくれました。私は船内でカスタムスとイミグレーションの係官の到着を待っていましたが、その日は午後4時を過ぎても係官は来ませんでした。午後5時を過ぎ今日の入国審査はもうないと判断したところで、今まで張りつめていた気持が緩み、疲れと共にそのまま食事もせずに朝まで寝続けることになりました。同じ時期モザンビーク海峡をクルーズしていた仲間のヨットもやはりぽれーるが遭遇したストームでセールや舵、ウィンドベーンを破損したり、エンジントラブルを起こしたりしてレスキューボートに牽引されて入港したヨットもありました。
リチャードベイは郊外にパルプ関係の工場地帯がありその積出を行う港湾都市ですが、周辺にカバやワニが棲む沼や猿のいる森があります。また、近くに国立公園やサファリパークがあって環境的にはたいへん素晴しいところです。ぽれーるが停泊したツジガジのウォーターフォロントは中型貨物船とタグボートや作業船が付く岩壁があり、その奥にマリーナと小型船の岸壁があります。このツジガジ・ウォーターフォロントはリチャードベイの観光スポットの一つでレストランやお土産店があり観光客や市民の憩いの場所となっていました。しかし、リチャードベイにはマリーナやヨットクラブがありますが、ヨットの整備や修理に必要な部品はほとんど入手できませんでした。シュラウドの接続金具、メインセールの修理に必要な粘着剤の付いたセール・シートやブームカート等を捜すためヨット仲間と車で約160km南にある大都会のダーバンまで行きましたが見つけることは出来ませんでした。南アフリカではどうもケープタウンが物流の中心地のようでリチャードベイのマリンショップに必要な修理部品をケープタウンから送ってもらうことにしました。 また、スーパーマーケット等のある中心街からツジガジ・ウォーターフォロントは約7kmも離れているため食料品の買物にも不便でした。しかし、仲間のヨットがいたのと陸電と水道が使えてしかも岸壁への係留は無料であったためそのままそこに止まることにしました。
リチャードベイに到着した翌日の26日には日本のヨット「シーガル」のウラタキさんがぽれーるを訪ねてくれました。「シーガル」の動向については時々オケラネットのサイトで見ており、ひょっとしたらケープタウン辺りで出会えるかもと考えていましたがまさかリチャードベイで出会えるとは思いもよりませんでした。「シーガル」は約一ヶ月前にモーリシャスからリチャードベイに着きツジガジ・ウォーターフォロントから約2km西に離れたズルランド・ヨットクラブに停泊していました。マダガスカルのセント・マリー島で「ヤイマ」のマエダさんと別れてから約2ヶ月ぶりに日本語で気楽に話が出来るウラタキさんとの出会いは疲れ切っていた私に安心感を与えてくれました。その後もウラタキさんとは買い物に出かけたり、ズルランド・ヨットクラブのバーで一緒にビールを飲みながら今までのクルーズのこと今後の航海計画等についていろいろ話たりしました。その後ウラタキさんは一足先にイーストロンドン、ポートエリザベス、モッスルベイ、ケープタウンへと進んで行かれ、その先々から貴重な情報を教えていただきました。
南アフリカは1994年4月人種差別政策(アパルトヘイト)が廃止されて既に10年以上経ち黒人の人達は差別がなくなり地位や生活水準は上がっていると言われていますが全人口の約13%の白人の人達の経済的優位は変わっていないようでした。繁華街のスーパーマーケットや商店はほとんど日本で見かけるのと同じですが、白人系の人が経営する少し古い商店やショップは昔の名残かほとんどのところがドアはもちろんのこと表の壁一面に鉄格子がはまっていました。多分、不審者の浸入と暴動が起こった時に暴徒から略奪されるのを防ぐために設けられているのだなと思いました。その鉄格子は今も機能しており、そういった商店ではインターフォンを押し店の人に不審者でないことを確認してもらいロックが解除されてはじめて店の中に入ることができます。更に入口にガードマンのいるお店もかなりあり、そういったお店で買い物をして外に出ようとするとそのガードマンにレシートと品物が一致しているかどうか確かめられることがあります。
南アフリカでは黒人と白人の居住区は別れているようでした。もし、郊外で黒人か白人の居住区を分からなくともその家の門と外壁等を見れば直ぐに黒人か白人の家かの判断がつきます。それは白人の人達の家は必ず不審者の侵入を防ぐため有刺鉄線や槍のような尖った鉄柵で囲まれており、少しお金持ちの家やマンションは高い塀と三段構えの6000ボルトの高電圧の電線が張り巡らされ侵入者感知センサーが設置され各所に侵入者に対する危険警告が英語・アフリカーンス語・その他のアフリカ語と絵で書かれたプラカードが掲げられていました。また、大きな街の郊外にはほとんどのところにスラム街があります。これは地方の村等から豊かな生活に憧れ都会にやって来た地方の人達で結局定職に就けずにその日暮らしになり粗末なバラックを建てて生活しているようでした。特に大きなスラム街はケープタウンの近郊でその大きさは数キロにも広がっていました。南アフリカ政府もこのスラム対策のため住宅を建設していますがとても流入する人達の数に対応できていないようでした。
南アフリカには南アフリカからだけでなくカメルーン、コンゴ、モザンビーク、ナミビア等の周辺諸国からも多くの出稼ぎの人々が来ていました。ストリート・チルドレンやホームレスも郊外でよく見かけました。もちろん、立派な屋敷に住んだり高級車に乗ったりしている裕福な黒人層もいました。また、すべての白人が裕福というわけではありません。たまたま白人の年配の人が運転するタクシーに乗った時のことですが、運転手は私が乗ったときから降りるまでの間中、南アフリカ政府に対する不満を言っていました。その運転手はドイツから南アフリカでの豊かな生活を夢見て移住してきたそうですが結局夢やぶれて仕方なくタクシー運転手をしていると言うことでした。彼の主張は「南アフリカでは政府の方針として、就職を希望する者の能力が同じ場合は黒人女性の雇用優先度が一番で、次が黒人男性、最後が白人だ。また、事業主は黒人を多く雇った方が税金とか金融機関からの融資の優遇が受けられるので結局俺のような白人はなかなか就職することができない。」ということでした。
この運転手の話がどこまで正しいかどうかは分かりません。しかし、ダーバンやケープタウンでは黒人に混じって白人のホームレスともヒッピーともつかない人達にも結構出会いました。また、私の主に訪れたマリーナとかヨットクラブはほとんどの従業員は黒人でボートやバースの整備、ガードマン、ウェイター、ウェイトレス、清掃員として働いていましたが、クラブ員はほとんどすべて白人という社会でした。たった8ヶ月間の南アフリカ滞在、限られた所と範囲しか見ていない私に南アフリカについて正確に語ることは出来ないと思いますが、私が友達のウェンディーや知り合った白人の女性の車に乗せて貰った時、必ず言われたことはシートベルトの着用ではなく「ウィンドウを閉めてドアロックしてね。」でした。南アフリカでは車が交差点で信号待ち等のために止まると多くの物売りや物乞いの大人や子供の黒人が車の横に来ます。そのような中で特に白人女性の運転の車は車上強盗のターゲットにされやすいと聞かされました。
リチャードベイでの私の生活は、日中、ぽれーるの修理と整備、夕方からは隣の岸壁で誰が言うともなく始まるバーベキューに参加、特に地元ヨッティーのヘニー(73才)はバーベキューの主役で、また、エンターテナーでギター、キーボードを弾きながらヨッティーの好きなカントリーや懐メロをプロ並みの歌唱力で歌ってくれます。ヘニーは訪れたヨッティー修理の相談や自分のキャンピングカーで買い物等への便宜を図ってくれ面倒見がよく皆からたいへん慕われていました。また、ヘニーは里親として黒人少年スペレレの面倒をみていました。
ぽれーるがリチャードベイに着いてから二週間目の12月8日にヨット仲間のアンソニーの「グラン・デ・サブレ」がモザンビークから到着しました。すっかり日焼けしたアンソニー、ウェンディーとデニーズに約一ヶ月ぶりの再会でした。早速、再会を祝して「グラン・デ・サブレ」で夜遅くまで飲み、マダガスカルの岬で別れてからの後のお互いの航海についていろいろ話しました。バザルトではウェンディーの元上司であったホテルの支配人に歓待され三人はダイビング、ウィンドサーフィンやツアーを半額の代金で楽しんだそうでした。 ぽれーるのモザンビーク海峡でのノックダウンの話をした時、アンソニーが「やっぱり、あの時一緒にモザンビークに向っていたらあのストームが来た16、17日は安全なバザルトのアンカリング地で回避できたのにね。」と言ったところ、ウェンディーから「過ぎたことよりももっと前向きな話しをしなさいよ」と言われてしまいました。相変わらずアンソニーはウェンディーには頭が上がらないようでした。 デニーズはマダガスカルで見た時と同じように静かに皆の話を聞きながらアンソニーの嫌うタバコの煙を気にしてか時々タバコを吸うため岸壁に上がって行っていました。
その翌日の9日、ウェンディーから「デニーズが来週イギリスに帰るのでその前にサファリパーク・ツアーに三人で行かないか。ヨットの整備もいいけどたまには息抜きも必要よ。」という誘いがありました。私が「アンソニーは行かないの?」と訊いたところ「アンソニーは別の計画があるようよ。」と言われてしまいました。ぽれーるの修理も一段落ついたところだったので私は彼女たちとサファリパークに行くことにしました。その日の午前中にウェンディーはレンタカー、宿泊場所の手配、サファリパークの入場予約、経路、見所の確認を行いデニーズと私にパンフレットと行動計画、服装と持って行く物まで説明してくれました。出発は11日、2泊3日、レンタカーでサファリーパーク内を走り「ビックファイブ」と呼ばれるライオン、ゾウ、サイ、ヒョウ、バッファローとキリン、シマウマ、インパラ、ワニ、イボイノシシ等の野生で暮らす動物たちとの出会いを楽しむものでした。
行き先のシュルシュルウエ・ウンフォロージ自然保護区Hluhluwe ・Umforozi Game Reserveはリチャードベイから北に約100kmにあり、960km2と日本の淡路島を一回り大きくした面積で起伏に富んだ地形と公園内を川が流れアフリカらしい草原が広がる美しい景観のサファリパークでした。ウェンディーは最初から最後までレンタカーを運転し、パーク内ではいち早く動物を見つけ「あそこの木陰にインパラがいる。」「川の岸の岩の陰にワニがいる。」「あそこの林の中にキリンがいるよ。」等とデニーズと私に教えてくれました。二人はその度にウェンディーの言った方向にカメラを向け写真を撮っていました。慣れないと自然の中にいる動物はなかなか見つけにくいもので、さすがウェンディーはアフリカでの生活が長いため動物を見つける要領を心得ているのだと感心しました。一日目の終わりはパークの北側にあるヒルパークという小高い丘の上のロッジに宿泊し、二日目は南にあるキャンプサイトでウェンディーが借りてきたテントに持ってきた寝袋で川の字になって仲良く眠ることになりました。
今回のサファリパーク・ツアーでは残念ながらライオンとヒョウに出会うことは出来ませんでしたが大きなアフリカ・ゾウやクロサイが車の直ぐ近くに来たりしてかなり迫力のある楽しい思い出となりました。それにしてもウェンディーはタフで三日目の帰りは少し遅くなって暗くなった道をリチャードベイへ走り「着いたわよ!お二人さん!」の声に起こされるまでいつの間にか少し疲れたデニーズと私が眠ってしまっていました。このサファリパーク・ツアーにかかったレンタカー、パーク入園、宿泊、食事等を含めての一人当りの経費は1100ランド(1RAND =12円で1万3200円)でした。「I really appreciate your hard work. Thank you, Wendy. ウェンディー本当にお疲れ様、ありがとう」
その週の水曜日にデニーズがリチャードベイ空港からイギリス帰り、ウェンディーは次の週の月曜日にパスポートの更新と友達のツテを頼って仕事に就き生活費と旅費等を稼ぐため陸路長距離バスを乗り継いでケープタウンへ向いました。私はぽれーるで日本を出発して4年目に入っていて幾多の人と別れを繰り返したためか、別れの時に相手としっかりと抱き合って「いつかどこかでまた会おう、サヨナラ」という海外のほとんどの国の人々が行う別れの挨拶がいつの間にか自然にできるようになっていました。
ぽれーるは結局、リチャードベイでクリスマスと新年を迎えることになりました。仲間のヨットのほとんどはダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウンへと先に進み、ケープタウンから既にブラジルに向け出国していったヨットもありました。ケープタウンからブラジル方面へのクルーズ時期は1月から3月の夏場がいいと言われていました。この時期を過ぎて遅くなるとだんだん寒くなり、更にリチャードベイからケープタウンに至る海域の天候の変化が早くなり安全な航海のための見極めが難しくなると言われていました。また、これ以上リチャードベイからの出発が遅れればぽれーるの上架や修理期間を考えるとビザの延長申請も必要となります。
しかし、何故か私はリチャードベイからの出発の決心がつかないままでいました。それは、モザンビーク海峡でのぽれーるのノックダウン体験がその発生時点では何とかしなければという気持ちで乗り切ることができましたが、リチャードベイに着いてから夜になってぽれーるに一人でいるとあの日の悪夢が蘇ってきてなかなか寝ることができませんでした。リチャードベイを離れるヨット仲間を見送りながら明日はぽれーるも出港しようと思うのですが夜になるとその決心が崩れてしまい自分でも情けないものでした。そして1月16日には多いときには約40隻いた海外からのヨットはぽれーるを含めて3隻となっていました。2隻の国籍はフランスで1隻の若い夫婦はフランスに帰っていて不在でもう1隻はフェドルとデュアンの仲間のヨット「ヒーロンデールHirondelle」でした。「ヒーロンデール」はウィンドベーンとオートパイロットの修理に手間取って遅れていました。
そのフェドルが「明日、明後日の風が北東の風5〜10ktで少し弱いが天候がいいのでおれは明日リチャードベイを出てダーバンへ行くがぽれーるはどうするんだ。」と訊いてきました。私は何も考えないで「ぽれーるも一緒にダーバンへ行きたい。」と答えてしまいました。南アフリカでは小さなヨット等も港を出て他の港へ航海する時は必ずポートコントロールへ定められた航海計画書を提出しなければなりません。これは船の遭難等を想定したもので緊急時の連絡先、乗員の氏名国籍、救命装備や無線機の搭載状況、船の大きさ特徴、出港予定時刻と到着予定時刻等を記述したものです。ポートコントロールは出港する船に対しは必ず船名とキャプテンの氏名を無線で聞いてきます。そして、その時にこの航海計画書がポートコントロールに提出されていないと出港許可がおりません。「ヒーロンデール」のフェドルと17日の午前中にポートコントロールへこの航海計画書を提出しその日の午後1時にリチャードベイを出港することになりました。
World Cruising Yacht "Polaire"
ぽれーる 関